1932昭和7年
宇都宮義真が光線治療器を用い、病弱の長男義和の治療を行う
光線治療器の卓越した効果に感銘を受け、生涯の業とすることを決意し、東京光線療法研究所が誕生
光線治療所を芝白金台町(現在の港区白金台)に開設
日本における光線療法の草分け的存在として、多くの患者の治療にあたる
機関誌「光線」発行
光線治療器「アナザーサン」の独自開発に成功
発光方式は正面対向式で、自動接近式の高級光線治療器(荒井製作所製造)
カーボンはシーメンス社(独)製を使用、その後コンラージ社(独)製に変更
医学博士 本多秀貫氏が顧問に就任
機関誌名を「光と熱」に変更
光線治療器名を「サナモア(SANAMOI)」に変更
光線治療所の募集と光線治療士の養成を開始
日本治療師会(現:全国療術師協会)に参加
光線療法の解説書「光線療法提要」発行
関連書籍「健康と光線」「光線療法について」「サナモア治療法説明書」「サナモア体験感想集」「足と健康」「病気は光線で直せ」出版
光線治療所を芝二本榎本町(現在の港区高輪)に移転
事業は拡大し、戦前の最盛期を迎える
書籍「光線醫学」発行
医療用カーボンを国産に切り替えるため、揖斐川電気株式会社に依頼
工場長 永井氏(後に監査役)と協力し、数種類を試作しスペクトル写真撮影
理化学研究所 二神博士の光電管を応用した光線測定器で測定
東京都電気奨励館(有楽町)にてサナモアを陳列販売
大成商会(日本橋)の扱いで光線治療器を海外輸出(支那、満州、朝鮮、台湾、フィリピン、チリ等)
戦時中は陸海軍の強制でサーチライト用カーボン以外の製造を禁止、医療用カーボンのみ製造継続を許可
宇都宮義真が第二次世界大戦召集のため事業中断
1946昭和21年
復員後、東京光線療法研究所の再建に注力
宇都宮義真が全国療術師協会 理事就任
東京光線療法研究所を大井森下町(現在の品川区大井2丁目)にて再開
サナモアカーボンの販売再開
揖斐川電気工業株式会社 須崎氏より、他社からの医療用カーボン製造依頼を断っていたと知る
光線治療器は自動装置のない7号器(支柱式)と8号器(卓上式)の2機種で販売再開
戦前10数件あった実用新案は2件取得(投影板装置、排気孔装置)
機関誌「健康と光線」第1号発行
サナモアを「SANAMOI」から「SANAMORE」に変更
宇都宮義真が全国療術師協会 理事長就任(1975年まで)
書籍「光線療法学」発行
代理店の協力で事業規模拡大、宇都宮正行が発送を担当
「株式会社 東京光線療法研究所」設立
宇都宮義真が初代代表就任
生涯を光線療法の普及にかけた初代代表 宇都宮義真死去(享年78歳)
宇都宮光明が二代目代表就任
接続式医療用カーボン(ジョイントカーボン)を揖斐川電気工業株式会社(現・イビデン株式会社)が開発
自動型光線治療器「はつらつさん1号」をイビデン株式会社と共同開発
書籍「光線療法学」改訂増補版(宇都宮光明著)発行
2000平成12年
第1回サナモア光線治療師養成講座を開講
「サナモア光線治療院」を目黒区目黒4丁目に開院
宇都宮正範が院長就任
宇都宮光明が代表退任
宇都宮正範が三代目代表就任
本社を目黒区目黒4丁目から目黒区目黒1丁目に移転
社名を「株式会社東京光線メディカル」に変更
光線治療院名を「サナモア治療院ソレイユ」に変更
訪問看護ステーション(在宅事業部)を目黒(旧本社)にて開業
サナモア講演会を再開(9月盛岡、10月博多)
宇都宮正範がワルシャワを訪問
光線療法についての講演会を海外で初めて開催
COVID-19感染拡大にともなう緊急事態宣言により対面販売休止
社内にて急速にIT化を促進
ポーランドの会社と取引契約締結
サナモアカーボンの欧州向け輸出開始
サナモア治療院ソレイユを「サンアモーレ」としてリニューアル
光線事業、ヘルスケア事業、在宅事業の三事業部体制
「90周年記念祝賀会」を品川プリンスホテルにて開催
光線治療器「はつらつさん2号自動型」をマイナーチェンジ
大垣事業所を大垣市本今より大垣市万石に移転